「フツーの子」の育て方 不登校を乗り越えて

 私には33歳の息子ともうすぐ30歳になる娘がいます。息子は独身で同居していますが、娘は結婚して別に暮らしています。

 先に言っておくと、お子さんを東大に入れたいとか、大谷翔平選手のようにさせたいというような希望をお持ちの方には参考にならないと思います(笑)。

 さて、私は24歳で母となりました。息子が生まれた日の晩、とても寂しく感じていました。それまでは、どこへ行くにも一緒、同じものを食べ、同じ音を聞き暮らしてきたのに、ついに別々の個体になってしまった、別々の人格を持つそれぞれの人間になってしまったからです。これからは、息子には息子の心と体があり、特に心には干渉してはいけないんだという覚悟を持った日でもありました。

 私が、子供たちに願ったのは、「心と体が健康であればそれでいい」ただそれだけでしたし、おかげさまでそれを貫くことができました。それを大いに支えてくれたのは、夫の祖母(明治43年生まれ)が教えてくれた「子どもは6歳までの可愛さで一生分の親孝行をする」という言い伝えのような言葉でした。そのおかげか、幸いなことにあまり叱らずに済んだのではないかと思います。

 私は、子どもを叱るポイントを決めていました。まず、「自分を大切にできていない時」、そして「他人に危害を加えた時」、「世間様に顔向けできないようなことをした時」、これだけです。もちろん、その基準は年齢を追って教えていきました。特に、小さな頃は危険行為について丁寧に教えたつもりです。例えば、お砂場でお友達にお砂をかけそうになった時などは、瞬時に止めに入り強めに「ダメ、絶対ダメ」と注意したり、実際にアイロンを加熱しておいて、手が触れないよう注意しながら「熱いよ、熱いよ、だから触らないでね」と言ってアイロンに手を近づけたりしました。まあ、普通ですね(笑)。

 自分がある面で比較的制約の多い家庭に育ったせいで、その反動でこんなお転婆になったと思っているので、「放し飼い政策」を取りました。それには、友人のお母さまや先輩ママたちを見ていいなと思ったことは全て取り入れました。

 参考にさせて頂いた先輩ママたちの共通点は、どんなことがあってもママがいるから大丈夫というメッセージを伝えるだけでなく、態度で示していたことです。

 息子が幼稚園の頃、近所のいじめっ子に自転車を取り上げられた時は、大人げないですが、その子の胸倉をつかみ「ごるぁ!誰のちゃりやと思とんじゃ、おばはんなめんなよ!相手がガキでも容赦せんからのう!」と言って取り返し方を見せました。

 また、息子が小5の時、クラスでちょっとしたケンカみたいなことがあり、本当は両成敗で済む話だったのに、一方の子の親御さんが学校に乗り込んで来られたそうで、息子は証人ということで夜の学校(19時頃)に呼び出されました。詳細は割愛しますが、私は乗り込んできたカタギではないお父さんと渡り合うところを息子に見せました。(私の大立ち回りはその後も目撃されることになります(笑)。)

 「放し飼い政策」では門限も設けませんでした。一度だけ息子を締め出したことがあるのですが、「ママー、あけてよう、ママぁ」という息子の泣き声には数秒しか耐えられなかったからです。しかたがないので「晩ご飯までにはおうちに帰ってきてね。」とたまーに言ていう程度でした。しかし、今どこら辺で遊んでいるか、誰と一緒か、といったことは息子にバレないように偵察に行っていました。そうなんです、「放し飼い政策」は「放置」とは全く違うのです。見ていないようで、目の端っこには必ず入れておく。

 「あ、そのまま続けたら中の水がこぼれてしまう」と思ってもじっと我慢です。危険な場合は別ですよ。どうやって子どもだけで乗り越えるか見守るのが大切だと思います。その方が子どもの問題解決の能力はあがるのでは?と思っています。

 学校の準備や宿題も手伝わないことにしていました。そのせいで担任の先生からお電話を頂戴することもありましたが、全部スルーです。忘れ物をしたら、他のクラスのお友達に借りに行くぐらいの知恵がなければ世の中を渡っていけないと思ったからです。しかし、当時は学校に公衆電話があり、さっき出て行ったはずの我が子から「リコーダー忘れたー!持ってきてー!」、「体操服忘れた、下駄箱に入れといてー」などと電話がかかってきて、何度も持って行きましたが。

 参考にさせてもらった先輩ママの一人に親友のお母さまがいて、私はそのママが大好きで「ママ」と呼ばせてもらっています。高校生のある日、いつものように遊びに行かせてもらった時に、親友が赤ちゃんの頃、母乳を嫌がるのでしかたなくミルクで育てたとママが言うのに対して、親友が「だって、パパと共有すんの、嫌やってんもん。」と返したのです。私はびっくりすると同時に「なんて風通しのいい関係なんだろう」と感動しました。私の家では考えられなかったからです。ちなみに、とてもちゃんとしたお家の方です。レクサスで歓迎されるような。

 またある時、数人でダイニングでおしゃべりさせてもらっていたら、ママが「あんたら、もし、襲われそうになったら、お金と体はあげるから命だけは助けてって言いや。」と言うのです。この時も私は大袈裟でなく、いたく感銘を受けました。「これだ!これが実践的な子育てだ」と。このママの言うことは、いつも「本音」であり「本質的」でした。

 さて、話があちこち飛びますが、私が結婚する頃、昭和61年に起きた「鹿川君事件」(担任教師までもがいじめに加担した「葬式ごっこ事件」)の裁判がニュースはもちろん、ワイドショーなどで話題になっていました。いじめで中学2年生の男子生徒がいじめを苦に自殺し、警視庁はいじめに加担した16人を傷害および暴行容疑で書類送検しました。個人的には書類送検は甘いと思いますが。実際、世間では彼らを放置せず、いやがらせが相次ぎました。

 私は、「子どもには学校は絶対に行かなくてはいけない場所ではないと教えよう。行きたくなければ休ませよう」と決心しました。私が小6の時、友達が担任からひどい言葉を浴びせられたことに憤った私と3人の友達は学校を抜け出し、その中の1人、陽子ちゃんの家へ逃げ込みました。叱られるんじゃないかと思っていた私たちを陽子ちゃんのお母さんは居間に招き入れ、話を聞いてくれた上、「そんな学校、行かんでええ。うちにおり。」と言ってくれました。

 「鹿川くん事件」の裁判の報道を見た私は、陽子ちゃんのお母さんを思い出しました。陽子ちゃんのお母さんは徹底抗戦の構えで私たちを守ってくれ、他のお母さん方に連絡を取り、毎日違うお宅でお世話になれるようにしてくれたのです。ここでも親の、母親の「私がいるから絶対に大丈夫」という姿勢を学ばせてもらいました。

 学校は大切なものではあるけれど、命と引き換えに学ぶものなど何もない、と私は思っています。

 実は、私の息子は中1になってすぐ、不登校になりました。「休みたい」と言ったので欠席させたのですが、1週間を過ぎたころ、先生が迎えに来られました。そこで私は「迎えに来ないでいただけますか。」とお願いしましたが、毎日のように来られるのです。しかたないので、玄関で立ち話程度で帰って頂くようにし、先生がお見えにならない時は、息子と一緒に「なるとも」(朝10時からやっていた、なるみさんと陣内智則さんがMCのバラエティー)を観て、昼食を取る毎日を過ごしました。たまに気まぐれで「今から(学校)行こかなあ」と言った時だけ送って行き、「迎えに来て。」と携帯からメールや電話が来れば迎えに行くという感じでした。

 登校刺激をしない方がいいということは、息子が2年生になった時によくわかりました。2年生の時の担任の先生は、私の「迎えに来ないでほしい」という要望に応えてくださり、一度もいらっしゃいませんでした。(この先生はとてもいい先生で、高校進学の時も助けてくださいました。)そのおかげで2年生は遅刻や早退も多かったですが、全日登校する日が劇的に増え、3年生では更に全日登校が増え、高校受験も乗り越えられました。

 その頃の私は、息子の前では笑顔で通しましたが、とても辛く悲しい思いをしていました。よその子のように学校に行かないからではなく、息子が、その小さな胸の内にどんな思いを秘めているのか全くわかってあげられなかったからです。なぜ学校に行かなくなったのかは今も知りません。我ながらよく頑張ったなと思うのは、たったの一度も学校へ行け」とは言わなかったことです。

 私が、息子を無理やり学校に行かせようとしなかったのは、繁華街などへ行かせないようにするためでした。学校に行くふりをして違う場所へ行く方が危険だと考えたからです。だから、できるだけ家の居心地をよくするように心がけていました。もう一つ、腫れ物に触るような振る舞いも一切しませんでした。

 無事、高校へ進学した息子ですが、学校への送迎は高1の1学期の梅雨のころまではしばしばありました。しかし、ある日、大雨だったので「送ったげよか?」と言うと「ううん。大丈夫。自分で行けるから。」と自転車で出て行きました。これ以降、息子は学校を休むこともなく、送迎もなくなりました。

 当たり前のように大学に進学し(JRの脱線事故以来、JRはよく電車が止まったり、遅延したりするので、スクールバスに乗り遅れることがよくあったので、最寄り駅まで引き返してくるのを車で拾って、高速道路で送るというのは何度かありました。)、キャンパスライフを満喫し、現在はアパレル系の商社で勤続11年になります。同居していますが、掃除、洗濯、洗い物、何でも一人でやっています。(食事は夫が担当です。)中学時代の不登校が噓のようです。

 思えば、私はとても子どもたちを信頼して育ててきました。「勉強しなさい」と「宿題しなさい」は絶対に言わないと決めていたので、初志貫徹です。振り返ると「〇〇しなさい」と言ったことはありません。子どもに「安心感」を与え、子どもを信頼するのはとても大切なのではと思います。

 そういえば、娘が中学何年生だったか忘れてしまいましたが、体育祭だか、文化祭だかの打ち上げに行く時に、打ち上げが夜だったのですが、私は行ってはいけないなど一言も言っていないのに、娘が「なんで、〇〇ちゃん(息子)は門限ないのに、ぼくはあかんの?」と言ってきました。私はびっくりしましたが、「あかん言うてないし、門限なんかないやん。けどな、○○ちゃんは男や。だから、ボコボコにされたり、ナイフで刺されたりするかもしれん。でもな、ぼくは女の子やろ?死ぬ以外で、もっと辛い目に遇うかもしれへんリスクがあるんはわかるね?できるだけ友達と一緒に帰るとか、明るい道を選ぶとか、自分で責任取れるならいいよ。」と返すと、娘は納得して打ち上げに出かけていき、そんなに遅くない時間に帰ってきました。

 娘が門限があると感じていた理由で思い当たるのは、娘が小3ぐらいの頃、市内と隣の市で、連れ去り未遂が多発していました。それで、娘が友達と遊ぶときは、他のお母さん方と持ち回りで送り迎えをしていました。それが中学生になっても続いていたのです。中学は校区が広いですから、車で送って行くことになるため、必然的に早めの時間にお開きになってしまうので、勝手にそれが門限だと思っていたのかもしれませんね。 

 うちの子どもたちは、実際の年齢は3つしか違わないのですが、息子が早生まれのため学年は4つ違います。娘が小6の時、息子は高1ですから、兄の方が自由にやっているように見えたのかもしれません。

 門限を設けなかったのは良かったと思っています。その方がこちらが言わなくても常識的な時間に帰ってくるようになるんじゃないかと思います。

 我が家は携帯電話の解禁も早かったのですが、たくさんの情報に触れることで、自然とメディア・リテラシーが身についていますし、携帯料金の節約なんかも上手いです。高校時代のアルバイトも規制しなかったので、それもいい社会経験になったのではないかと思います。

 「放し飼い政策」は忍耐が必要ですが、子育ては子どもを育てる以上に、親を育ててくれると思います。「介入」が必要な場合はあると思いますが、「過干渉」が一番ダメではないでしょうか。植物も水をやりすぎると根腐れして枯れてしまいます。

 私の「現役子育て」は娘が大学の近くのマンションに移った10年前で実質終わっていて、昨今の子育てに合うかどうかわかりませんが、書いてみました。

 息子の話が長すぎて、娘を育てた時のことが書ききれなかったので、またいつか書こうと思います。とんだ散文ですが、ブログですのでご容赦ください。最後まで読んでくださってありがとうございます。

 

 

 

 

 

 

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この記事を書いた人

'68年兵庫県生まれ 牡羊座

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